2024.8

奥之院おくのいん

一般的に奥之院というのは、寺の本堂よりさらに奥まった場所にあるお堂です。高野山真言宗で奥之院といえば、高野山にある弘法大師空海の御廟ごびょうのことを指します。

御廟とはふつうはお墓のことですが、高野山の奥之院は空海の墓所というわけではありません。というのも、空海は今も奥之院で瞑想をつづけているとされているからです。これを入定にゅうじょう信仰といいます。定とは心を定めること、つまり瞑想です。

私は20年ほど前に、父親に連れられてはじめて高野山に行きました。高野山には多くのお堂がありますが、真っ先に案内され、お参りしたのが奥之院です。

当時は御廟のまえで言われるがままにただ手を合わせ、線香をお供えするだけでした。今でもお参りの作法自体は最初に参拝した時とさほど変わりません(お経などは唱えますが)。ただ、御廟の前に立つと原点にもどってきたような感覚はあります。

奥之院の参道には無数の墓石があり、高野山の中でもかなり印象的な場所です。そのようなところを通り、空海のもとにおもむくのは、高野山ならではの体験ではないかと思います。

2024.7

正思惟しょうしゆい

「無辺の生死いかんがく断つ ただ禅那ぜんな正思惟のみあってす」()

これは空海の著書『般若心経秘鍵はんにゃしんぎょうひけん』の一節です。

禅那とは心を静かにたもつこと、正思惟とは正しく考えることです。冒頭の文は、限りない生と死の苦しみを断ちきることができるのは、落ち着いた心から生まれる智慧だけであるという意味です。

心が定まらず浮ついていては、良い判断はしづらいでしょう。私たちが失敗をするときはたいてい気持ちが焦っています。逆に心を静めていれば、問題の解決策が思いつきやすくなるかもしれません。単純な話ですが、心をととのえるということについては、じっくり考える価値があると思います。

私たちの現状は私たちのひとつひとつの判断がつみ重なりでき上がっています。そのひとつひとつが良いものかどうかで一年後、五年後、十年後の姿が大きく変わることは想像にかたくありません。心のありかたが自身の状況を左右するといえます。

どんなときでも落ち着いていられるのは難しいことです。ただ、たとえば一日に数分でも心をゆったりさせる時間をつくり、それをくり返していけば、正思惟に近づけるのではないでしょうか。

2024.6

三毒さんどく

仏教では根本的な煩悩として、貪瞋痴とんじんちというものがあるとされています。

貪はむさぼること・尽きない欲望、瞋は怒り・にくしみ、痴はおろかさ・分別のない心のことです。この三つをまとめて三毒とよんでいます。

たしかにこれらは自分にとっても他人にとっても、良いことはありません。毒そのものといえます。

ですが、三毒をまったく生ぜずに日々を過ごすことはまずできないでしょう。生きているかぎりなにかしらの欲はありますし、理不尽・不快なことがあれば怒って当然です。また、常に的確な判断をくだせるわけではありません。

ただ、貪瞋痴をかかえている自分を意識することはできるとおもいます。毒と聞くと我々のそとにあるもののようですが、貪瞋痴は私たちの心の一面です。心の毒を自身でおちついて客観的にながめることで、毒の広がりを防げるのではないでしょうか。

2024.5

年忌法要

故人のために営まれる法要は葬儀だけではありません。定められた年の命日にあわせておこなわれる年忌法要ねんきほうようというものもあります。

年忌法要は年によってさまざまなご本尊をおがみます。たとえば葬儀の一年後にあたる一周忌は勢至菩薩せいしぼさつ、二年後の三回忌は阿弥陀如来あみだにょらい、六年後の七回忌は阿閦如来あしゅくにょらい、といったようにご本尊が替わります。

○○回忌の「回」は何回目の命日かをあらわしています。葬儀はいうなれば一回忌の法要であり、一周忌は二回忌にあたります。ですので、一周忌の一年後の年忌法要は三回忌となっています。

年忌法要は遠方からも縁あるかたが集まる機会です。ご本尊を拝み故人の冥福を祈るとともに、語らいの中で故人を思い返す時間を大切にしていただけたらと思います。

2024.4

薬師法要

当寺では毎年4月第2土曜日と11月第1土曜日に檀信徒の方々をお招きし、護摩祈禱ごまきとうという法要を修しております。

本堂には護摩壇ごまだんがあり、そこで住職が参列された皆さんのために祈願をおこないます。

護摩祈禱では火を焚き上げ、火の中にご本尊へのお供え物を投げ入れます。

法要では間近でその様子をご覧いただけます。

ご本尊は薬師如来やくしにょらいです。あらゆる病苦から人々を救ってくれるとされる仏です。

ふだん本堂は閉めているため、中に入ってお参りいただくのは基本的に一年でこの二回だけです。

ですが、護摩祈禱じたいはどなたでもお申込みいただけます。

お申込みは随時お受けしております。

当寺で拝んでほしいという方はご連絡ください。

2021.6

真言宗では仏前に品物をお供えすることを六種供養(ろくしゅくよう)といいます。六種とは「ご飯・線香・花・明かり・身に塗りつけるお香・水」のことです。

ここでの水は渇きをいやすためのものというより、洗い清めるものとして供えられています。

密教の修法では、仏が現前においでくださるよう念じます。このとき、実際の水を使って仏の足を洗う所作をします。また、仏にお帰りいただく際は水で口をそそぎます。

修法でつかう水は、早朝に井戸から汲んだものがよいとされています。


大日如来

ご自宅にお仏壇があり、そこに仏像をお祀りされているご家庭もあるかと思います。その仏像が、胸の前で左手の人差し指を突き立て、その先端を右手で握っている姿をしていたら、それは大日如来という仏です。

真言密教の宇宙観を表した「曼荼羅(まんだら)」という絵があります。円形や正方形の中で整然と並んだ無数の仏が描かれています。その中心に配置されているのが大日如来です。

これは、大日如来からすべての仏が生じていることを示しています。大日如来がさまざまな仏に変わるのは、衆生を救済するとき、それぞれの状況にあわせて対応するためといわれています。

2021.5

火渡り

先日、長野県東筑摩郡朝日村の古川寺(こせんじ)様にて初めて火渡りを体験させていただきました。

火渡りとは燠(おき)の上を素足で歩く儀礼のことです。その先には仏が祀られているので、仏に向かって歩く構図になります。

火渡りの直前までは赤い燠を目の前にして気が張っていました。その熱は数メートル離れていても頬に伝わってきます。

火の残る燠の上を歩くときの熱さは想像以上でした。足裏が鋭い錐で突き刺されているような感覚です。

渡り切ったときの解放感は格別でした。終わったという安堵より、何か不要なものが削がれてすっきりした気持ちになったことを覚えています。

これは、渡っている最中(数秒とはいえ)火によって雑念が滅せられたからかもしれません。


南無大師遍照金剛
(なむだいしへんじょうこんごう)

真言宗の仏事では「南無大師遍照金剛」とよく唱えます。これは宗祖空海を敬い拝むための言葉です。

「南無」とは古代インド語のナモを音写したもので、信じる、頼りにするという意味です。南も無も関係はありません。

「大師」は天皇から高僧に贈られる尊称で、諡(おくりな:人の死後に贈る称号。生前の功績を讃えて付ける。)でもあります。空海は醍醐天皇より弘法大師という大師号を授かりました。

金剛とはダイヤモンドのことです。ダイヤのような堅固さと輝きを持ち合わせ、周りを万遍なく照らす。これが「遍照金剛」の意味です。空海は唐で真言密教を学びました。そのときに遍照金剛という名を、師匠の恵果(けいか)から与えられました。

空海、遍照金剛と、とにかくスケールの大きい名前です。それだけの人物だからこそ、1000年以上経った今も我々がその名をお唱えしているのだと思います。

2021.4

灯 明

灯明(とうみょう)とは、神仏やご先祖の前でお供えとして灯す明かりのことです。蝋燭が主に用いられていますが、油で灯すものや電気を使うものもあります。

仏教では光が様々な場面で出てきます。例えば、供養でも祈禱でも唱えることができ利益も優れているとされる光明真言(不空大灌頂光真言)は、五つの仏に光を放つようお願いする真言です。また、大日如来や阿弥陀如来はその光であらゆるものを照らすと言われています。

お釈迦さまは、苦しみの根本的な原因は無明(むみょう)にあると言われました。無明とはものの道理がわからず暗闇で彷徨うことです。暗い中で自分の進む方向を定めるには光が必要です。光は智慧(ちえ)の象徴ともされています。

他にも「自らを灯明とし法(教え)を灯明とせよ」との言葉も残されました。自分と法を頼りにし、他のものを拠り所としないという姿勢を説かれています。

お仏壇の蝋燭というと線香を点けるための火種と思われるかもしれませんが、その明かりには智慧、拠り所といった意味があります。

2021.3

香 炉

各家庭の仏壇や堂内の祭壇においてご先祖や仏にお供え物をする際に、大事な役割を果たす道具があります。

燭台(しょくだい)、花瓶(けびょう)、香炉(こうろ)の三つです。

香炉は主に線香を立てる道具ですが、焼香の際にも用いることがあります。そのときには線香ではなく香炭(こうたん)と呼ばれるものを使います。

香炉によってお供えするものは線香や焼香、香炭それ自体ではなく、そこから発せられる香りです。仏は香りを好むとされ、そのためにお香や花など芳香を生ずるものが仏前に捧げられます。

また、良い香りは、その場やそこにいる人の心を清らかにしてくれるとも言われています。

香炉には香炉灰がつきものですが、灰そのものが重要というわけではありません。線香を安全に立たせることができれば、灰を使う香炉とは別の、手入れのしやすい線香立てを使っても宜しいかと思います。

2021.2

お守り

寺社に参拝した際、お守りを頂かれたことのある方は少なくないと思います。ただ、これらは製作されたときからお守りだったわけではありません。

お守りとなるには、神仏の前で祈願する必要があります。この儀式は「お性根入れ(おしょうねいれ)」、「開眼(かいげん)」などと呼ばれています。神仏の力をお守りに宿らせるという儀式です。

多くのお守りには寺社名が記されているので、それがどこのものかは意識しやすいと思います。一方、何の神仏のお守りなのかということは分かりにくいかもしれません。

ですが、お守りの成り立ちを考えると、どの神仏のものなのか知っておいたほうが良いかと思います。