2020.12

南 無

南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)のように、仏教では南無の付く語句がよく使われます。

この南無はもともとサンスクリット語の、敬意をあらわす「ナモ」を音写した言葉で、帰命(きみょう)、即ち仏を称えその教えに従うことと訳されています。

仏の前に立ったとき、お願いごとをする方は多いと思いますが、その際に敬意を表すのはとても大事なことではないでしょうか。人の場合でも同じですが、願いを聞き入れてくれる相手に対してはこちらも然るべき態度で臨む必要があると思います。

堂宇(どうう:四方に張り出した屋根(軒)をもつ建物、仏堂など)や仏壇の前で仏と向かい合い、手を合わせ、「南無○○」と唱えることは仏を敬う所作でもあることを、当たり前であるとはいえ、意識していただけたらと思います。

2020.11

お 香

法要や祈禱といった仏事を執り行う際に様々な道具が必要となりますが、そのうちの一つにお香があります。お香の素材は主に白檀(びゃくだん)や沈香(じんこう)といった香木(こうぼく)です。

最も広く使われているお香は線香ですが、他にも粉末状の塗香(ずこう)や細かく刻まれた木片状の焼香(しょうこう)などがあり、用途によって形状が異なります。

お香を用いる目的はおおまかに二つ、お清めとお供えです。

僧侶が仏事を行う際、先ず始めに塗香を使います。器から塗香をつまみ取り、両掌に摺り付けます。そうすることで体を清め、また香りを嗅ぐことで心を清めるという意味合いがあります。

仏前に花や灯明を設(しつら)えるとともにお香を焚くのは、仏が香りを好むとされているからです。法要などで行う焼香は、仏や故人に香りを捧げるために行うものでもあります。

2020.10

観 音

日本で広く唱えられているお経の一つ、般若心経(はんにゃしんぎょう)は

観自在菩薩行深【かんじざいぼさつぎょうじん】

という文言から始まります。観自在菩薩というのは観世音(かんぜおん)菩薩と呼ばれているホトケの別名であり、観世音菩薩を省略した呼び名が観音(かんのん)です。ちなみに行深とは、修行を深めるという意味です。

観世音の字を分けてみると、世の音を観ずる、と読めます。世の音とは世間にいる人々の救いを求める声であり、観ずるとは物事を捉える、あるいは見抜くと言い換えることができると思います。

願いを持つ人々の声に、常に耳を傾けているのが観音です。観自在という名も、世の中を隈なく自在に見渡していることを表しています。

もちろん、ただ座して観じているだけではありません。人々を救うためその目の前に現れると言われていますが、そのときの姿は人々の気質や器によって異なり、様々な神仏や老若男女など、その数は 33 に及びます。

33 の姿とは別に観音にはいくつかの種類がありますが、そのうちの一つ、千手観音(せんじゅかんのん)はそれぞれの手に宝剣、経典、蓮華など様々なものを持っています。これも、人によって救うのにふさわしい方法が異なるからです。

このように観音は、あらゆる人々に心を向け、それぞれに合ったやり方で救ってくれる、格別に人に寄り添ったホトケといえます。

2020.9

彼 岸

お盆が終わってひと月もたてば、秋の彼岸の時期になります。春分の日と秋分の日を中日(ちゅうにち)とし、それぞれの前後三日を合わせた七日間が彼岸の期間となっております。春分の日、秋分の日はともに日付が定められていないので、彼岸入りの日も常に同じではありません。今日では彼岸はお盆同様先祖供養の習わしとして知られていますが、彼岸という言葉にはそれとは別の意味合いが含まれています。

彼岸とは、我々衆生(しゅじょう=人間をはじめすべての生物)のいるこちら側=此岸(しがん)に対する悟りの世界、仏のいる向こう岸のことです。般若心経の中に「般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)」というフレーズが頻出しますが、波羅蜜多とは彼岸に到達する、つまり悟りを得るという意味です。

中国では、西方にあるとされる極楽浄土に向かって念仏を唱えることが悟りを得るための方法の一つとして説かれていました。西へと拝む際、方角の目安になるのは太陽の沈む位置ですが、それが真西となるのは春分・秋分の日です。そのため極楽浄土の方向が正しく示されるこれらの時節が、悟りを得る=彼岸に至るのにふさわしい時期と考えられていました。

 

2020.8

お盆の時期になりますと、各寺院にて施餓鬼(せがき)法要が催されます。これは、先祖だけでなく餓鬼も含めたあらゆる霊に対して食べ物を捧げるという趣旨の法要です。

餓鬼とは仏教の説く六つの世界の一つ,餓鬼道(がきどう)にいる亡者です。そこでは、生前に犯した罪によって餓鬼道に落ちた者が常に飢えに苦しんでいます。餓鬼と呼んではいますが、最初から鬼だったわけではありません。

一方、鬼には「死者のたましい」という意味もあります。たましいを指す「魂魄(こんぱく)」なる言葉にはどちらにも鬼という漢字が使われていますし、「鬼籍に入る」との言い回しも、鬼が亡者であることを表しています。

お盆にはご先祖さま以外に、餓鬼のような有縁無縁の霊も集うと言われています。お墓やお仏壇の前で手を合わせるとき、餓鬼たちにも心を向けてみてはどうでしょうか。

2020.7

蓮 華

蓮華(れんげ)は仏教を象徴する花です。経典の説く極楽には蓮(はす)の花が咲き、仏像の多くは蓮の台(うてな)に座しています。

蓮には徳あるものとされる特徴がいくつかあります。

泥の中に蓮は根差しますが、その花は泥に染まらず清らかな姿を見せます。泥は苦難や煩悩、花は悟り、清浄な心を表しています。

心身が揺さぶられるような環境の中でも、それに囚われることなく本来の姿を保っていられる、これを「淤泥不染(おでいふぜん)の徳」といいます。

他に「一花多果(いっかたか)の徳」というものもあります。蓮は一輪の花に20個ほどの種を実らせます。それと同じように、悟りは数多の幸福をもたらすという考えです。

実際に、お釈迦様が菩提樹の下で得た悟りは仏教となり、現代に至るまで厖大な数の人々に様々な影響を与えて来ました。

2020.6

写 経

日本で最も古くに写経が行われたのは、今から約1300年前だと言われています。当時の写経の目的は、経典を複製し仏教を広めることにありました。

現代で写経を行う場合、祈願、供養、修行、仏教への関心などそれぞれの理由があると思います。仏教とは関係なく単に書きたいから書くという人もいるでしょう。

ただ、写経では動機以上に書いている時間そのものが大事ではないかと思います。

筆を持ち、集中して漢字を書き連ねていく。この時間は、完全ではないにしろ、自分の心を日常の出来事から離してくれるのではないでしょうか。

日々の生活の中では周りに神経を使う場面が少なくありません。ですが、そのことだけに心を向けていては気疲れが増えるばかりです。

それとは別の、自分の書く字に集中するという神経の使い方は、日常を一時でも忘れられるかもしれないという意味で、気持ちの切り替えに繋がるのではないかと思います。

2020.4

五輪塔

お墓・供養塔には様々な形がありますが、江戸時代以前は五輪塔と呼ばれるものが主流でした。

五輪塔とは五つの形から成る供養塔で、真言宗の僧侶覚鑁(かくばん 1095年~1143年)によって広められたといわれています。

五つの形は地、水、火、風、空(五大)を表しています。古代インドには、五大によって宇宙がかたち作られているという思想がありました。

五輪塔には五大に当てはまる梵字が彫られています(画像参照)。お盆、法事などで使う板塔婆にもこの形状や梵字が用いられています。

真言密教において仏を表現する方法はいくつかあるのですが、五輪塔もその一つです。五輪塔を建てることは、亡くなられた方に対して仏が直接供養をしているということにもなります。

梵字の読み 性質 形状 字形
キャ 宝珠
半円
三角
方形

2020.3

三密加持(さんみつかじ)

真言宗の僧侶が仏の前でお経や真言をとなえるのは、多くは仏の力をお借りするためですが、単に仏を称え敬うため、あるいは仏との一体感を得るためという場合もあります。

仏と一体となることは真言密教が目指している境地ですが、密教ではこれを「入我我入【にゅうががにゅう】」と呼んでいます。仏が我の中に入るとともに、我が仏の中に入るという意味です。

ではどのようにして自分の中に仏を感じるのか。真言密教には仏を表す印相や真言、そして仏のイメージの仕方が伝わっています。手に印相を結び、口に真言を唱え、心に仏を思い描くことで自分と仏を重ね合わせようとします。

体(印相)、口(真言)、心(イメージ)の三つを仏と結びつけることを「三密加持【さんみつかじ】」といいます。三密とは仏の体・口・心の状態であり、加持とは仏の力を我々が受け取り、我々の信心を仏に向けることです。

高野山で行われている修業は、主にこの三密加持を学ぶ内容となっています。