2021.6

真言宗では仏前に品物をお供えすることを六種供養(ろくしゅくよう)といいます。六種とは「ご飯・線香・花・明かり・身に塗りつけるお香・水」のことです。

ここでの水は渇きをいやすためのものというより、洗い清めるものとして供えられています。

密教の修法では、仏が現前においでくださるよう念じます。このとき、実際の水を使って仏の足を洗う所作をします。また、仏にお帰りいただく際は水で口をそそぎます。

修法でつかう水は、早朝に井戸から汲んだものがよいとされています。


大日如来

ご自宅にお仏壇があり、そこに仏像をお祀りされているご家庭もあるかと思います。その仏像が、胸の前で左手の人差し指を突き立て、その先端を右手で握っている姿をしていたら、それは大日如来という仏です。

真言密教の宇宙観を表した「曼荼羅(まんだら)」という絵があります。円形や正方形の中で整然と並んだ無数の仏が描かれています。その中心に配置されているのが大日如来です。

これは、大日如来からすべての仏が生じていることを示しています。大日如来がさまざまな仏に変わるのは、衆生を救済するとき、それぞれの状況にあわせて対応するためといわれています。

2021.5

火渡り

先日、長野県東筑摩郡朝日村の古川寺(こせんじ)様にて初めて火渡りを体験させていただきました。

火渡りとは燠(おき)の上を素足で歩く儀礼のことです。その先には仏が祀られているので、仏に向かって歩く構図になります。

火渡りの直前までは赤い燠を目の前にして気が張っていました。その熱は数メートル離れていても頬に伝わってきます。

火の残る燠の上を歩くときの熱さは想像以上でした。足裏が鋭い錐で突き刺されているような感覚です。

渡り切ったときの解放感は格別でした。終わったという安堵より、何か不要なものが削がれてすっきりした気持ちになったことを覚えています。

これは、渡っている最中(数秒とはいえ)火によって雑念が滅せられたからかもしれません。


南無大師遍照金剛
(なむだいしへんじょうこんごう)

真言宗の仏事では「南無大師遍照金剛」とよく唱えます。これは宗祖空海を敬い拝むための言葉です。

「南無」とは古代インド語のナモを音写したもので、信じる、頼りにするという意味です。南も無も関係はありません。

「大師」は天皇から高僧に贈られる尊称で、諡(おくりな:人の死後に贈る称号。生前の功績を讃えて付ける。)でもあります。空海は醍醐天皇より弘法大師という大師号を授かりました。

金剛とはダイヤモンドのことです。ダイヤのような堅固さと輝きを持ち合わせ、周りを万遍なく照らす。これが「遍照金剛」の意味です。空海は唐で真言密教を学びました。そのときに遍照金剛という名を、師匠の恵果(けいか)から与えられました。

空海、遍照金剛と、とにかくスケールの大きい名前です。それだけの人物だからこそ、1000年以上経った今も我々がその名をお唱えしているのだと思います。

2021.4

灯 明

灯明(とうみょう)とは、神仏やご先祖の前でお供えとして灯す明かりのことです。蝋燭が主に用いられていますが、油で灯すものや電気を使うものもあります。

仏教では光が様々な場面で出てきます。例えば、供養でも祈禱でも唱えることができ利益も優れているとされる光明真言(不空大灌頂光真言)は、五つの仏に光を放つようお願いする真言です。また、大日如来や阿弥陀如来はその光であらゆるものを照らすと言われています。

お釈迦さまは、苦しみの根本的な原因は無明(むみょう)にあると言われました。無明とはものの道理がわからず暗闇で彷徨うことです。暗い中で自分の進む方向を定めるには光が必要です。光は智慧(ちえ)の象徴ともされています。

他にも「自らを灯明とし法(教え)を灯明とせよ」との言葉も残されました。自分と法を頼りにし、他のものを拠り所としないという姿勢を説かれています。

お仏壇の蝋燭というと線香を点けるための火種と思われるかもしれませんが、その明かりには智慧、拠り所といった意味があります。

2021.3

香 炉

各家庭の仏壇や堂内の祭壇においてご先祖や仏にお供え物をする際に、大事な役割を果たす道具があります。

燭台(しょくだい)、花瓶(けびょう)、香炉(こうろ)の三つです。

香炉は主に線香を立てる道具ですが、焼香の際にも用いることがあります。そのときには線香ではなく香炭(こうたん)と呼ばれるものを使います。

香炉によってお供えするものは線香や焼香、香炭それ自体ではなく、そこから発せられる香りです。仏は香りを好むとされ、そのためにお香や花など芳香を生ずるものが仏前に捧げられます。

また、良い香りは、その場やそこにいる人の心を清らかにしてくれるとも言われています。

香炉には香炉灰がつきものですが、灰そのものが重要というわけではありません。線香を安全に立たせることができれば、灰を使う香炉とは別の、手入れのしやすい線香立てを使っても宜しいかと思います。

2021.2

お守り

寺社に参拝した際、お守りを頂かれたことのある方は少なくないと思います。ただ、これらは製作されたときからお守りだったわけではありません。

お守りとなるには、神仏の前で祈願する必要があります。この儀式は「お性根入れ(おしょうねいれ)」、「開眼(かいげん)」などと呼ばれています。神仏の力をお守りに宿らせるという儀式です。

多くのお守りには寺社名が記されているので、それがどこのものかは意識しやすいと思います。一方、何の神仏のお守りなのかということは分かりにくいかもしれません。

ですが、お守りの成り立ちを考えると、どの神仏のものなのか知っておいたほうが良いかと思います。

2020.12

南 無

南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)のように、仏教では南無の付く語句がよく使われます。

この南無はもともとサンスクリット語の、敬意をあらわす「ナモ」を音写した言葉で、帰命(きみょう)、即ち仏を称えその教えに従うことと訳されています。

仏の前に立ったとき、お願いごとをする方は多いと思いますが、その際に敬意を表すのはとても大事なことではないでしょうか。人の場合でも同じですが、願いを聞き入れてくれる相手に対してはこちらも然るべき態度で臨む必要があると思います。

堂宇(どうう:四方に張り出した屋根(軒)をもつ建物、仏堂など)や仏壇の前で仏と向かい合い、手を合わせ、「南無○○」と唱えることは仏を敬う所作でもあることを、当たり前であるとはいえ、意識していただけたらと思います。

2020.11

お 香

法要や祈禱といった仏事を執り行う際に様々な道具が必要となりますが、そのうちの一つにお香があります。お香の素材は主に白檀(びゃくだん)や沈香(じんこう)といった香木(こうぼく)です。

最も広く使われているお香は線香ですが、他にも粉末状の塗香(ずこう)や細かく刻まれた木片状の焼香(しょうこう)などがあり、用途によって形状が異なります。

お香を用いる目的はおおまかに二つ、お清めとお供えです。

僧侶が仏事を行う際、先ず始めに塗香を使います。器から塗香をつまみ取り、両掌に摺り付けます。そうすることで体を清め、また香りを嗅ぐことで心を清めるという意味合いがあります。

仏前に花や灯明を設(しつら)えるとともにお香を焚くのは、仏が香りを好むとされているからです。法要などで行う焼香は、仏や故人に香りを捧げるために行うものでもあります。

2020.10

観 音

日本で広く唱えられているお経の一つ、般若心経(はんにゃしんぎょう)は

観自在菩薩行深【かんじざいぼさつぎょうじん】

という文言から始まります。観自在菩薩というのは観世音(かんぜおん)菩薩と呼ばれているホトケの別名であり、観世音菩薩を省略した呼び名が観音(かんのん)です。ちなみに行深とは、修行を深めるという意味です。

観世音の字を分けてみると、世の音を観ずる、と読めます。世の音とは世間にいる人々の救いを求める声であり、観ずるとは物事を捉える、あるいは見抜くと言い換えることができると思います。

願いを持つ人々の声に、常に耳を傾けているのが観音です。観自在という名も、世の中を隈なく自在に見渡していることを表しています。

もちろん、ただ座して観じているだけではありません。人々を救うためその目の前に現れると言われていますが、そのときの姿は人々の気質や器によって異なり、様々な神仏や老若男女など、その数は 33 に及びます。

33 の姿とは別に観音にはいくつかの種類がありますが、そのうちの一つ、千手観音(せんじゅかんのん)はそれぞれの手に宝剣、経典、蓮華など様々なものを持っています。これも、人によって救うのにふさわしい方法が異なるからです。

このように観音は、あらゆる人々に心を向け、それぞれに合ったやり方で救ってくれる、格別に人に寄り添ったホトケといえます。

2020.9

彼 岸

お盆が終わってひと月もたてば、秋の彼岸の時期になります。春分の日と秋分の日を中日(ちゅうにち)とし、それぞれの前後三日を合わせた七日間が彼岸の期間となっております。春分の日、秋分の日はともに日付が定められていないので、彼岸入りの日も常に同じではありません。今日では彼岸はお盆同様先祖供養の習わしとして知られていますが、彼岸という言葉にはそれとは別の意味合いが含まれています。

彼岸とは、我々衆生(しゅじょう=人間をはじめすべての生物)のいるこちら側=此岸(しがん)に対する悟りの世界、仏のいる向こう岸のことです。般若心経の中に「般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)」というフレーズが頻出しますが、波羅蜜多とは彼岸に到達する、つまり悟りを得るという意味です。

中国では、西方にあるとされる極楽浄土に向かって念仏を唱えることが悟りを得るための方法の一つとして説かれていました。西へと拝む際、方角の目安になるのは太陽の沈む位置ですが、それが真西となるのは春分・秋分の日です。そのため極楽浄土の方向が正しく示されるこれらの時節が、悟りを得る=彼岸に至るのにふさわしい時期と考えられていました。

 

2020.8

お盆の時期になりますと、各寺院にて施餓鬼(せがき)法要が催されます。これは、先祖だけでなく餓鬼も含めたあらゆる霊に対して食べ物を捧げるという趣旨の法要です。

餓鬼とは仏教の説く六つの世界の一つ,餓鬼道(がきどう)にいる亡者です。そこでは、生前に犯した罪によって餓鬼道に落ちた者が常に飢えに苦しんでいます。餓鬼と呼んではいますが、最初から鬼だったわけではありません。

一方、鬼には「死者のたましい」という意味もあります。たましいを指す「魂魄(こんぱく)」なる言葉にはどちらにも鬼という漢字が使われていますし、「鬼籍に入る」との言い回しも、鬼が亡者であることを表しています。

お盆にはご先祖さま以外に、餓鬼のような有縁無縁の霊も集うと言われています。お墓やお仏壇の前で手を合わせるとき、餓鬼たちにも心を向けてみてはどうでしょうか。